J 「信心の度胸。末永先生夫妻の出産のこと。人非人。神情から生まれた人情」
昭和五十七年六月十七日 朝の御理解
御理解 第七十九節 「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所 と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八 銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れる から、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働 くがよい。」
七十九節を頂きましたがこれにもう一つたすと八十ですね。七十というのは漢字を七という字を一寸こう曲げると十という字になるでしょ。曲がっておるところを一寸改める、違っておるところを一寸改めるという事が七から八に移っていくね、もう一つ、この山を超えるのにもう、一息の信心とこう、まあ、いう事になりましょうか、願っても願っても、例えば、おかげにならんというような時には、もう、ここに一心発起するというか、もう、度胸をすえて、もう一つの信心を試みてみる事です。そこにいわば、八十という広がるおかげの世界に出る事が出来ます。
昨日、ビリグイから若先生宛に手紙がまいっておりました。今度赤ん坊が生まれました。息子の子が生まれ、お名前を頂きたいと言うて来とりましたから、お名前を送らせましたが、道典と頂いた。それがあちらへ到着致しましたのが丁度届け出をしなければならないしめ切り寸先におかげを頂いて到着致しましたというのです。
まあ、本当に有り難いお名前を頂いて、といを御礼の手紙でございましたが、この度は又、教祖金光大神のみ教えの実証をさせて頂いたという事が書いてある。
この前は娘、真佐世さんというんですが、真佐世が生まれた時には、もう、それこそ隣知らずという、も、夢の中に陣痛を頂いて夢の中に生まれたというような、ま、それこそ、も、本当にびっくりするようなおかげを頂いて、今度もやはり自宅で生まれましたが、ま、結局、夫婦さし向きの事ですし、わからん子供達が何人もおります今度が五人目でしょうか、の子供を頂いて、も、本当に教祖のみ教えにありますようにもう、それこそ産前産後によかり物というあのみ教えがあります、もう、産んだらも、その、翌日から平日の通りというみ教えがあります。これはなかなか、腹帯をするより信心の帯をせよ、などというようなところはね、私の方の家内はずっと腹帯は致しませんけども、まあだ、母が、もう、それこそ出産の後は大変大切に致しました もう、一月は絶対寝とらなならんというて、産後を大切にしましたから、私共も、家内もそこの体験は持っとらんのです。ところが今度、公子さんが場合はそげなふうで、もう、どうにもしょうがない。御神飯ももう明くる日から炊いたというのですからね。子供の赤ちゃんの世話もやっぱずっとさせて頂いておかげで、教祖様のお言葉をそのまま実行させて頂いておかげを頂く事は、いわゆる教祖のみ教え、教祖は嘘はおっしゃってないんだという実験であり実証をしていくという事がとりわけ取次者には必要なんです。ま、これは取次者に限らん事ですけども、なら、お互い信奉者一同もです、結局は教祖のみ教えの、実験実証者足らん事を願としての、信心でなからなければいけません。
なら、今日の御理解なんかでも、本当に商売をさせて頂いて本当に売り場、買場を大切にせよとか、ね、十銭のものは八銭でと、なかなかもって出来ません。
私は、もう何十年の信心させて頂いて出来なかった。これだけはもう、とにかく、人が十銭儲かるところは十一銭儲かってね、余分に儲かったつはお供えするという位な信心は出来たけどもね、なかなかもって人が十銭の時に八銭、ね、売り場買い場じゃない、もう、それこそ、まあ、仕入れのところは叩きけるだけ叩いてね、お客さんには嘘八百、というか、ま、嘘八百というわけでもないでしょうけれども、ま、酒屋でございますからね、この酒は飲みが悪かったばいちいわれりゃ、なら、今(こん)だ念いれちから持って来ますと言うてから、それにちいぅとばっかり水入れちから持っていくと、わあ、今(こん)だんとはよかったち言う。(笑い)本当ですよ。昔の酒屋ちわそうでした。腐れ酒を、ま、よい酒に直せる技術が求められたんです。
あの時分の酒屋は。今はもう瓶詰めばっかりですからもう、そんな事は出来ませんけとね。いうなら、み教えとはもう反対の事ばっかりして、ま、それでもおかげを頂いて来たけれども、それでなら、本当の成功は出来なかったという事。
あの時分に例えば、今日のみ教えをね行じたらひょっとすると、合楽教会は生まれとらんかも知れません。
商売で繁盛してたかも知れません、ね。本当にその教えを行ずるとい時には、なかなかもって、いうなら、どんなに願っても願っても七十九である。これにもう一つ、度胸をすえてね、本気で教えを行じようというような、それこそ末永先生じゃないけれども、離れ業的なおかげを頂いて、離れ業的な修行に取り組むという事。
そこにはじめて、教祖様は嘘はおっしゃってないという、その実証も出来ると同時にいうなら、七十九から八十というおかげになってくる。ね、
昨日、原さん所のお宅祭りでございましたから、私と若先生が副祭主、あそこは松栄会の昌一郎さんが松栄会ですから、そういう意味でいつも若先生が行くんです。
ま、親子でお祭り奉仕させて頂いたわけですけれども、合間に若先生、こういう事を話すんです。今度の御本部での三日間の研修の時に、私の部屋に甘木の今の親先生が尋ねて見えた。又、久留米の今の教会長である石橋先生が尋ねて見えた。それで、まあ、甘木、久留米の先生方と三人でこうやってお話をしている時に、ふと自分の心の中に感じたのはね、親先生が、も、何十年も前に頂かれたという合楽の神愛会と、甘木の親愛会と久留米の真愛会が、この傘の下にこう、ね、いつも聞いて頂くようなああいうお知らせを頂いておったが、ハハアこんなふうにして、甘木、久留米、合楽が一つになって一同に会しておる様子を見てから、はあ、これが親先生が言うておられたあれだなというふうに感じたという話。
決して傘下という意味じゃありません。甘木関係もなからないゃ久留米関係もないそこに、なら、合楽関係でもないけれども、たまたま若先生が頂いとる部屋に、ま、甘木、久留米の教会長が見えられた、という時にそんな事を感じたと言うておりましたが、どうでも、いうならば、合楽教会が・・・・合楽教会は間違っておるね、それこそあれは天神記というお芝居がありますよね、あの松王丸、梅王丸が出るあの、お芝居なんですけれども(菅原伝授手習いの鏡)あの松王丸のセリフの中に、ね、松はつれないつれないと世上の人の言の葉にというところがありますね。
兄弟三人の者が、それぞれの立場で御主人が違うわけなんですね、しかも、いうならば、仇役、天神様とは仇役の方に味方してるわけです。松王丸は、だから世情の人は、だから松はつれない、つれないと世上の人が言うけれども、実際の芯はそうではないんだという事。というて、なら、自分の子供を犠牲にしてでも、その前の御主人に注意をせよとするあのお芝居なんですがね、それこそ世上の人が合楽の事をどういうておるか、ね、本当に聞くに耐えないような、まあ、それは、ま、棒にも箸にもかからんような悪口もありますけれども、なるほど、普通から言うなら合楽の事を悪口を言うはずだと、思うような事もやはりあるという事でございます。
私は昨日、原さんところのお祭りの後のお話の中にも申しましたが、私が善導寺にお祭りを奉仕するようになって、も、長年にもなりますが、今度のお祭りを境に原さん方にお祭りに行くのは止めると、これは何か考えなきゃいけないよと言うてお話をした事でございますけれども、もう、それこそ隣同志のようなところに私の親教会があるのです。あそこは長い家ですから、裏の離れのところはもう、教会がそこに見えてるんです。大祓の声が聞こえるんです。
月次祭の時には楽の音が聞こえてくるんです。そんなに近い所、親教会。けれどもね、なら、私の場合は毎年、も、以前はまあだ久保山先生のところもお祭りがあっておりましたから、も、ほんの隣同志の所に合楽から沢山な信者が集まってお祭りを仕える。そりゃ、これは三井教会の方達だけではない、そんな話を、もし、いうならば他の教師や教会の方達が聞かれたら、なるほど世間で言うとおりにね、大坪さんという人は、も、本当に人非人だと、ま、当時言われましたがね、言うはずでしょうが、ね、三井教会があって合楽があるんだと、いつも言うてるように、その、三井教会は口で言うだけで実際は、なら、隣にまでお祭りをしげ行く、年々、ね。
それを、なら、いうなら、これは普通の者でもなおさら思うでしょうし、信心のある者でもです、どけん考えたっちゃ大体、人情から言うたら出来るこっちゃないのです。人非人というのが当たり前です。
ま、そういう事も合楽の悪評の元になっておるだろうと思いますけれども、昨日、私、気がつかなかったけれども、お話がすんで若先生が、今日のお話の中に人情をすて神情に生きぬき、そこから生まれてくる神情という話をなさったが、あれはいつも御理解に頂くようにね、人力に見切りをつけて神力にすがれ、人力自ずから湧くというああいう意味ですかと言うて聞くんです。あら、そげな事言うたかなあて言うて、私は改めて思うたんですけどもね。それなんです。ね、んなら、私は、もう、人情をふり捨てて、例えば、神様が行けとおっしゃるから行った、それは合楽の大坪は人非人と例えばよし思われても、人からは、人非人と言われても神様からはね、悪く言われたり思われたりしてはならない。人から悪く言われても神様から悪く言われてはならない。これは私の、ま、いうなら、離れ技的な信心であったと思うのです。
神様そんなわけにはいきません。親教会の側に私がお祭り仕えげ(つかえ)行く、それはとても人情から出来ませんと私は言わなかったという事です。
も、神様の仰せ通りに仕えたという事ですね。そして、なら、何十年も続けて来たけれども、もう、この辺でです、いうならば、ね、人情に見切りをつけてね、神情にすがる一筋で今日までやって来たけれどもね、そこから自ずから湧いてくる人情、もう、ここのはじめの人情とここの人情と同じ人情でも人情が違う。
私が、もう、原さんのところ、原さんのところというがね、親教会の側にお祭りに行くといったような事は止めるとこう言う、これは何十年前の人情と今日の人情というのは、ま、神情の中から生まれた人情という事が出来るでしょ。
そこからです、なるほど、松はつれない、つれないと言われて来たけれども、ね、実際になら、自分の子供を犠牲にしてでも、松王丸が忠義の男であったと言う事がわかってもらわなければ合楽の御比礼に傷がつくね。
神様のいうなら、仰せ通りに仕えて来たけれども、いわゆる神情一筋で来たけれどもね、そこを乗り超えた向こうにある人情という事が、私はね、人間としての本当の真の道とはそういう事だと思うね。
ま、おそらく、昨日も申しました通りに原さんのところの宅祭と、何か他の形に変わっていくでしょうけれども、私が、又は若先生が、なら、あちらに、お祭りを仕えげに行くという事はなくなるだろうね。そこで人情でいろんな工夫が、又、されるでしょうけれどもです。
神様の仰せ通りとか、み教えをいよいよ本気で行ずるという時ね、なかなか行じにくい事もある。人からいうならば、人非人と言われるような結果にしかならん事は火を見るより明らかなんだけれども、神様が仰せられるのだから、神様の仰せにはそむかれんという生き方を何十年続けて来たがね、人情から神情そして自ずから湧いてくる今度は人情という事になっていく事になった時はじめて合楽教会が、本当は松王丸じゃないけれどもね、悪人じゃなかったんだなあ、不忠実な男ではなかったんだなあという事がわかるおかげ。
先だって、秋永先生が大きなこの頃、会合に出てね、合楽の先生のわからんところが三つある、その質問に答えてほしいという事で、ま、秋永先生にいわせると愚にもつかないような質問だったそうですけれども、それがわかった時に相手の人が、はあそういう事だったんですか。そりゃ私が悪かった、お詫びの印にでもいっぺん是非行きたいという。その質問の中に御本部参拝をあなたんところの先生が行く時にいつも真正面のあとから来て一番正面に座る。しかも座布団敷いちから、も、そしてお祭りの半ばにお水かお茶か飲むがあれはどういう事かというて、まあ、質問されたという事。 結局、こちらは気がつかないけれども、合楽の教会長という事になると、もうやっぱ、皆が、あ、あれが合楽の先生だというふうに、まあ、注目しておるという事 そんなら金光様の先生、人に教えを説かんならん者がああいう事でよいかというふうに見られたんではね、いうならば、信心に傷がつく合楽の信心に。知らなかった時とはいえ、別に私が真正面に席を取っておけ、座布団を敷いとけなんて勿論言うた事もありません、けども、そういう働きになっておるから、只、それを黙って頂いて来ただけなんですけれども、ま、そういうふうに人が見られるならね、これから、合楽の席は、も、二階にしょうと私はこう心の中に決めてるんです。
真正面に座るような事はすまい。合楽は二階に今度は席を取るようにしよう、ね。 こういうね、例えば、これが本当だとわかったら、もう、それこそ勇気をもって、それをさっさと切り替えていくね。
大祓信行から今の祈念詞信行にかわったなんかでも、これが本当だと思ったから、明くる日に私は、あれを印刷させました。明くる日から皆さん、いわゆる大祓詞を全廃されました、ね。表行はいけないとわかったら、も、早速表行全廃を致しました。 というようにですね、それがいうなら、八十のおかげになってない七十九であるところから、もう、これに一つ添える事によって八十になる。それはいよいよ教祖のみ教えを実験実証していく以外にはない。実験するのにしよいみ教えもあるけれども、どげん思うてもこれば、実験しよれば人から人非人と言われる事がわかっておる、けれども神様の仰せにはそむかれんとして、なら、原さんと久保山先生方にも宅祭を出向いて行ったようにねそりゃ、本当気がねなんですよ私は。だから、もう、原さんのところのお宅祭の時には、も、表をきれいに閉めて、暑いのにカ-テンを閉めてくれと言うんです、いつも多勢の人がいうならば、信行を唱えておる、楽の声が聞こえる前をもし、誰か、なら関係の方が通ってです、ここでねえごつがありよるじゃろかと思うたら、ほう、合楽はほんな親教会の側にでん、こげな事してくれるじゃろか、とまあ言われる事だけは間違いないわけですよね。
けれども、いうならば、人情から神情、神情を乗り越えて向こうにある人情にふれさせて頂いて、いうならば誰でもが、はあ、なるほど、松王丸が悪人ではなかったなと、皆にも先生方の人にもわかってもらえられる為にもです、ここんところう頂かなきゃならない。場合によってはそこもあるけれども、通るところを通ってより本当な事に入って行こうというのでありますね。
おかげ七十九から動かんならばですね、その七を一寸改めてプラスにしていかなきゃならない。これにもう一つたせば八十だ、そういう時に今迄ね、どうにも行じる事の出来なかった教えに取り組んで本気で行じようという気になる為には、やはり、勇気がいりますね。いうなら、神情一本にそこを頂いて行こうとする、まあ、度胸がいるね、その向こうにはね、神情を乗り越えた自ずから湧いてくる人情に触れさせて頂く時に、本当なおかげの世界という事になるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。